著 佐藤里佳子
明治に描かれた銅版画の法多山境内図には、法多山についての説明文、境内の施設名称の他、以下のような文字が記されている。
「静岡縣遠江國磐田郡笠西村法多山厄除観世音境内全圖」
「明治廿四年六月廿日出版 同年同月 日御届」
「画作兼発行印刷人 東京市神田區柳原河岸廿号地竒留 青山豊太郎」
「彫刻人 太田翠嶹」
「法多山尊永寺蔵版」
「・・・明治廿四年卯四月春 法多山尊永寺第廿六世 大谷純教識」
「土方雲外 画」
これによりこの境内図は、現住職の曽祖父、大谷純教氏の代に、明治24年(1891年)に青山豊太郎によって制作されたことがわかる。
この翌年には『日本博覧圖 静岡縣初篇』(明治25年)、さらにその翌年には『日本博覧圖 静岡縣 後篇』(明治26年)が精行舎から刊行されている。
この青山豊太郎による「日本博覧圖」とは、明治時代に制作された、建物や街並みを俯瞰で精密に描いた銅版画集のことである。
博覧図シリーズとして、明治21年~30年(1888〜1897年)にかけて13冊が出版された。描かれたのは関東地方が中心で、栃木県、静岡県、千葉県は県単位で刊行されている。なかでも静岡県は前・後篇に分けられ、369点の銅版画が制作されている。
名所旧跡や寺社、農工商家の邸宅や庭園、学校、工場などが鳥瞰図として描かれ、山や田畑、街並み、人や馬車までも細やかに表されている。
現存する建物と比較すると、家屋が非常に正確に描かれており、図としての信頼性も高いことがわかる。
この博覧図は出版方法も独特で、渡辺善司氏の「『博覧図』の出版をめぐって」(『千葉県立中央博物館研究報告人文科学』第九巻第二号)によると、精行舎はまず発行者と地主や寺社、商人などの注文主が契約を結び、画工(絵師)が現地で写生を行い下絵、縮図を作成した。
注文主は、特定の建物を強調したい、人物や日常の風景も描き入れてほしいといった要望を出すことができ、図版には博覧会の受賞メダル、広告、商標、参詣者、人力車、汽車、郵便配達人、農作業風景など多様なモチーフが盛り込まれている。
完成した絵は彫師が銅板に刻み、印刷する。それらの銅版画を集め、両面刷りで200ページに及ぶ「博覧図集」として書店で販売が行われた。
注文主には、版画集1冊、注文主の建物を描いた図の印刷物5,000枚と版木が納品される。
こうした銅版画は、土地の記録であると同時に、寺社や商工農家の立派さを示す役割も持っていた。さらに、顧客への宣伝に使われたり、美術品として鑑賞されたり、文化的な記録として残されたりもしたのである。
このシリーズには複数の絵師や彫師が関わったが、表現のスタイルは驚くほど統一されている。俯瞰図らしい遠近法を駆使し、家屋や道、畑や川まできっちりと描き込まれている。
当時の鳥瞰図制作は、まず画工が現地に滞在してスケッチを行い、建物の配置や道筋、地形の高低差を記録した。時に村人や施主からの指示・資料提供を受けることもあり、情報の裏付けがとれていたと思われる。
その後、写生をもとに縮図を作り、さらに俯瞰構図に再構成していった。必ずしも空からの景観そのままではなく、見やすさや情報性を優先しつつ遠近法を採り入れ、一部に注文主の希望を反映したため、建物を強調したり誇張したりすることもあった。
この方法によって、ドローンのない時代でも正確さとわかりやすさの両立が可能であったのである。
銅版画は単なる地図絵ではなく、その地域の「視覚的パンフレット」のような役割を果たしていたため、画工・出版者・注文主が協働して「正確かつ魅力的な鳥瞰図」を目指したのである。
現代版の境内図も多少のデフォルメや省略を含むが、その処理の仕方や角度までも青山豊太郎の銅版画と重なっている。
それは依頼主である住職や施主の要望に応える中で「わかりやすさ」「伝わりやすさ」を追求した結果、自然に同じ答えにたどり着いたからなのではないか。
130年前にこの境内図を描いた人物も、現代の制作者と同じように「どの角度で描けば伝わるか」を考え、悩み、工夫を重ねたのだろう。
参考文献:
『日本博覧圖 静岡縣初篇』精行舎 1892年
『静岡県明治銅版画風景集』羽衣出版 1991年
「『博覧図』の出版をめぐって」渡辺善司
(「千葉県立中央博物館研究報告人文科学」第九巻第二号)2006年
「那須野が原博物館収蔵の銅版画―明治期銅版画の制作過程―」金井忠夫
(那須野が原博物館紀要第十四号)2018年
「明治期風景銅版画をめぐって―埼玉を描いた『博覧図』(精行舎)―」芳賀明子
(埼玉県立文書館『文書館紀要』第26号)2013年
「明治期商家銅版画資料に関する歴史情報学的研究」菅原洋一
(科学研究費補助金萌芽的研究研究成果報告書, 平成22-24年度)2013年