伝承では、寛永17年(1640年)播州二見(今の兵庫県明石市二見町)より移築されたという説や、森町三倉から移築されたという伝もある法多山の境内を護る門です。
多くの伝承が伝わりますが、戦国時代(1467-1615年)に焼失し、新築されたことは確かです。
徳川家康により統一され平和になった江戸時代に、失われた建築物の再建築ラッシュが起こりました。
法多山の仁王門もこの1600年代の建築様式の建築物です。それ以来、約400年この地で法多山を参拝する人々を迎えてきました。
仁王門は、国指定重要文化財に指定され、寛永17年(1640年)12月16日正法院主 宥清上人代により再建され、三間一戸桜門、間口7.27m奥行4.24mのこけら葺きの雄大な門です。
門の左右に立つ、一対の仁王像は門と同時期に制作されたものであり、同じく寛永17年(1640年)の制作と伝わります。
仁王像の制作者は袋井市浅羽の岩松寺の天狗面を奉納した人物(仏師吉田安右衛門:江戸銀座四丁目)と同じであるという書きつけが残されています。
また、伝承として、江戸の終わりに作られた「遠江古蹟図会(とおとうみ こせきずえ)」著者:長庚(兵藤庄右衛門)1803年※遠江国の名所や旧跡について、実施調査を踏まえて記した絵入りの史跡名所案内図(特に伝説口伝に詳しい)によると、現菊川市の大頭龍権現の仁王門が焼け、仁王像が残ったので、同時期に仁王門が焼けた法多山に仁王像を寄付したという口伝も残ります。
さらに、仁王像をよく見てみると、足の部分が一度切断されたような痕跡が見え、この仁王門の中に設置する為に作られた仁王像ではなく、何処か他の場所、他の門の為に作られた仁王像をこの門に配置する為に、身長を短く改造されているようにも見えます。
また、仁王像の背に付けられている「天衣(てんね・てんえ)」と呼ばれる布のような装飾も法多山の仁王像からは外されており、この仁王門に収めるために装飾を外したような印象を受けます。
いくつもの伝承や口伝が残された仁王門と仁王像。
春には桜が飾り、夏の日差しを厚い影で参拝者を迎え、秋の紅葉に色づき、冬の荘厳な空気をまとい、凛とした姿で今日も経ち続けています。
様々な逸話や伝承が残された雄大な門は、400年間法多山の入り口を護り続け、今日も雄大な姿で訪れる人々を優しく迎え入れます。
昭和に制作されたパンフレットにも記載されている、棟札写しには、下記のように記されています。
尊永寺仁王門寛永十七年棟札写
尊永寺棟札写(抄出) 悉地院隠居
大檀那大梵天王本願権大僧都法印清賢敬白
于時寛永十七年辰庚十二月十六日
豊田郡池田郷半場善右衛門歓兼栄
大願主帝釈天王大施主
豊田郡加茂郷平野三郎右衛門繁家
于時明治十九年戌丙三月吉日尊永寺二十六世住職大谷
義延純教当山二王門棟札写誌之者也