法多山尊永寺は、今から約1300年前の神亀2年(725年)に行基上人がつくったと今に伝えられています。
遠州一円の根本道場として、参拝者の祈祷をはじめ、法多山尊永寺で行われる宗教的行事の多くがこの本堂で催されます。
本堂は幾たびも戦火や火災にあい、記録に残る永禄年間(1558-1570)に兵火により焼失、再建した十間四面本堂も弘化4年(1847年)に焼け、最後に焼けたのは幕末(1853-1868)の頃でした。
江戸時代には、山の上に立つ本堂に向かう道中に十二のお寺があり、輪番で6年に一度、本堂を運営する当番制で本堂を運営していました。
本堂への参拝者が、それぞれの十二の寺院にお参りし、それぞれ独立した塔頭(たっちゅう)寺院として存在し、境内の入り口である仁王門を入ると、十二の門と寺が参道の左右にずらりと並び、数多くの参詣客を集めていました。
明治となり、十二坊は統合され、正法院が「尊永寺」と名前を変え、高野山真言宗の別格本山として今も多くの人々の信仰を集めています。また四季折々の自然の織り成す美しい境内は、観光の名所にもなり、年を通して多くの催事が行われ、遠方からも人が集まる、この地域のランドマークとして愛されています。
現在の本堂は昭和58年(1983年)、建立当時の姿である十間四面の姿で再建されました。見上げるほどの石段を登る先にそびえる十間四面の大本堂の姿は千年を超える悠久の歴史の中で今も多くの参拝者が集まります。
明治24年(1891年)に描かれた、銅版画の境内図に描かれた姿は120年の時を超えて今と変わらぬ当時の姿を伝えています。
また、本堂にまつられる「正観世音菩薩」の御本尊は、六十年に一度の御開帳の秘仏として伝わり、法多山が設立された奈良時代、神亀2年(725年)行基上人の作と伝わります。
法多山尊永寺に伝わり数々の伝承を持つこの御本尊は、60年に一度しか開帳とされ、次回の開帳は令和10年(2028年)とされています。
明治24年(1891年)に記され、「日本博覧図 静岡縣後篇(明治26年(1893年)精行社)」に記された法多山の境内図の様子。100年以上前の図にも今と変わらない法多山の境内図が写実に描かれています。
南に遠州灘の太平洋、広大な小笠山の山麓に建つ法多山本堂は1300年の歴史をここで脈々と紡いでいます。