法多山で行われる祭事の中で、最も美しく、最もご利益があると言われるのが毎年7月9日10日に行われる「万灯祭」です。法多山の御本尊がまつられる本堂前、数え切れぬほどの灯籠に灯された灯が参拝者の眼前に広がる風景は忘れられない夏の絶景と言われ、県外からも多くの参拝者が訪れます。
では、なぜ?灯籠が飾られるのでしょうか?
ここで一つの仏教に伝わるエピソードを御紹介させて頂きます。お釈迦様がある町にやってくることになり、多くの方がお釈迦様をお迎えし、足元を照らす為に灯りを灯して出迎えました。お金持ちは大きな灯籠を、人々はこぞって灯りを用意したのですが、貧しいおばあさんは、灯りを灯す為の油を買おうとするがお金が足りず、油屋さんが「お釈迦様にお供えするなら」と小さなお皿に少しだけ油をくれたものに火を灯しお供えすることが出来ました。
お釈迦様が町に着き、説法を始めると、夜半になり大風が吹き、ほとんどの灯りが消える中、おばあさんの灯り一灯だけが残りとても明るく輝いていたのです。弟子の阿難(あなん)がお釈迦様に理由を尋ねると「本当の信心、真心でお供えした灯だから消えることは無い」と答えられたという「貧女の一灯」というお話があります。
仏様に灯りをお供えする、灯りをお供えするとご利益があるという事は、インドでもはるか昔から考えられており、日本でも745年(天平16年)聖武天皇が東大寺で万の灯りを灯す「万灯会(まんどうえ)」を行っています。
仏様に灯りをお供えすることは、仏様が喜ぶこととされています。
灯りとは、闇を明るくする「智慧(ちえ:仏教の教え)」を象徴するものとされ、現代でも脈々と受け継がれ、お仏壇にも灯明やロウソクが飾られるのはその為です。
仏教の考え方の中に、人が汚れ、悪い方に行ってしまう三毒(さんどく)があります。貪・瞋・癡(とん・じん・ち)と呼ばれ、欲望のままにいようとする「貪」、怒りや嫉妬、感情の昂り「瞋」、知恵が足りず、道理をわきまえず仏様の教え・人道を知らない「癡」の三つの煩悩です。
貪には分け合うことを、瞋には耐え忍ぶ平静さを、癡には仏様の教えや正しい生き方や知識、知恵を身に付けることを教えています。
その教えに象徴される知恵、仏様の教え、智慧を象徴するお供え物が「灯り」なのです。
法多山では、一年で最もご利益がある日、7月10日。この日にお参りすると四万六千日分のご利益が頂けるとされています。昔からは四万六千という数字は、人の一生の日数とも、一生を一升とかけ、一升升に入るお米の粒の数ともいわれますが定かではありません。
この日には、境内では「ほおずき」が売られ、法多山の万灯祭と言えば「ほおずき市」と言われるほどで、ほおずきを買い求める人で賑わいます。赤く丸く輝くほおずきは、昔の人々が仏様にお供えする灯に見立てられた名物なのかもしれません。
万灯祭の日付は毎年7月9日10日、この日は、四万六千日のご利益日として、休日、平日を問わず、常に7月の9日10日に行われます。
現代でも、千とも万とも数え切れぬほどの灯りを灯された灯籠が、本堂前の境内を埋め尽くすほどの絶景となります。7月9日10日法多山の長く暗い夏の夜の石段を登ると広がる光景は、仏様に備えられた老若男女の祈りのこもった献灯で出来上がっています。一度見たら忘れられないその美しさの理由は、仏様にお供えする多くの方の想いと祈りで出来上がっているからなのかもしれません。